IJN Battleship Yamato in her final last battle moments at Okinawa, before being sunk by US fighter planes, April 7, 1945
笑顔の皇軍兵士
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IJN Battleship Yamato in her final last battle moments at Okinawa, before being sunk by US fighter planes, April 7, 1945
“もう随分前に亡くなったウチのじーちゃんも、戦後千島列島で捕虜になってたが小さい頃からその話をすると、必ず「ポーランドの兵隊に優しくしてもらって生き延びた。だからポーランドの人とはお前も仲良くしろよ」とよく聞かされた。いまその言葉を噛み締めている。”—
(lovecakeから)
“陸軍省で情報解析を行っていたある元職員(陸軍将校)が、大東亜戦争中、米軍が次はどの島に何時攻勢を掛けるかの予測の報告書を書いた。 それが、ことごとく当たっていたが、陸軍幹部は無視した。しかし戦後GHQがその資料を読んで、当該の元陸軍省職員を訪れ、根掘り葉掘り質問したとのことであった。 その職員は、米軍が攻勢を掛ける6ヶ月前に缶詰会社の株価が急上昇することを発見し、スイスの放送局の短波放送でニューヨーク証券市場の株価を調べた。その株価が上がった6ヵ月後の時期から逆にその時期に攻勢を掛け易い島を推定していた。”—
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これはマジ?
(via highlandvalley)
FBF堀芳康さんよりシェア
負けるのがわかっていてもやらねばならない戦いがある。
極東のロシアの漁港で行われた尼港事件は、砲門もない日本の守備隊340名と電信隊の合わせて380名。在留邦人は400名だった。そこに流れ込んだパルチザンは3000名。そこに在留の支那人900人と、朝鮮人500人がパルチザンに寝返った為に、5000人近い敵と戦わなければならなくなった。石田副領事は日本軍に救援を要請したが結氷期の1月に入り軍艦が近づく事が出来ない。そんな日本の守備隊にパルチザンは武装解除を要求してきた。しかし、日本人は彼らが既に降服したロシアの守備隊とその家族の惨殺を散々見せられ、次は日本の番であることを知っていた。
領事館に集まった人達は議論した。勝算はない。しかし、彼らの選んだ結論は死戦。正規の軍隊ではない野盗の集団に降服するよりは、死ぬことを選んだ。
武装解除の期限が迫る夜、夜襲を決行し、首領の足を打ち抜き、もう少しというところまで追い込んだが、仲間にかかえられながら逃げられてしまう。
夜襲はある程度、成功したが、その後部隊は囲まれて全員が玉砕する。やがて敵は形勢を取り戻し、領事館を包囲しはじめる。石田副領事は、猛火の中、守備隊の三宅少佐と刺し違えてかえらぬ人となった。石田副領事夫人は泣き叫ぶこともなく、最愛の自分の子供二人を刺殺し、日章旗を振りかざし、「帝國万歳!!」と叫んで猛火の中に飛び込んだという。
この戦いで日本の守備隊は全滅、民間人も彼らの毒牙にかかり、残るは僅か122名となった。そんな中、再びパルチザンから休戦の申し入れがあった。その内容は日露両司令官からの偽の申し入れ文書だった。弾薬も食糧もつきて疲れ果てた人達は一縷の望みをかけてこの休戦申し入れを受け入れた。しかし、これは嘘だったことを彼らは知ることになる。
やがて解氷期を迎えて、日本海軍がやってくることがわかった日、パルチザンはこの122名を一人ずつ呼び出し、処刑を始めた。
暁やもの思ふ身に不如帰 (壁に鉛筆で書かれていた)
その時に銃殺された軍曹が書き残したものだ。処刑は1920年5月24日から25日の明け方6時まで続いたという。負けるとわかっていながら戦いを挑んだ彼らの勇気は、武士道に由来するものだ。國家の名誉を重んじ、死戦を挑む。日本は昔からそんな國だったのだ。それに支那朝鮮が強い者に寝返るのも歴史的に変わらないことを尼港事件は教えてくれるのである。
(kowalski38から)
scsa:
“174 名前:名無し三等兵[]投稿 日:2005/07/21(木) 14:39:15 ID:TDrqRQKh うちの爺ちゃんは沖縄で戦って捕虜になったんだが・・・・。 つかまった時は2日くらいなにも食わずに隠れてた状態だったらしく腹ペコだったらしい。 臨時の捕虜収容所につれていかれる途中に若い米兵が腹が減っているのに気がついたらしくコンビーフの缶詰をくれたらしい。 もちろん補給劣悪、肉なんてなかなか・・・。という状態だった爺ちゃんはコンビーフのあまりの旨さに卒倒しそうになったそーな。 これだけだったらよくある話なんだが・・・・。 続く 175 名前:名無し三等兵[]投稿日:2005/07/21(木) 14:49:32 ID:TDrqRQKh 爺ちゃんは料理人だったんだわ。かなりの腕の。沖縄戦が終わって捕虜がたくさん集まるようになると、米兵さんがあまっているコンビーフとかパンとかをたまに供給とは別に投げ入れてくれるよーになったそーな(さすが持てる国は違いますな) んで、どこから見つけてきたかは不明だけれど米俵を運んできてくれたりもしたそーな。ただ生米なんてくえないので、飯ごう返してといったらなんでかフライパンをつけて返してくれたそーです。(アメリカ人は米を料理するのにフライパンが必要だとでも思ったのか?) それで油と米とコンビーフや、他の米軍の食材がそろったので、爺ちゃんは当然、料理を始めたらしい。 まぁ、コンビーフ入りのチャーハンを作ったらしいです。これが捕虜達の間では好評でかなり感謝されたらしいんですが、こっからが米軍の本領発揮でした・・・。 177 名前:名無し三等兵[]投稿日:2005/07/21(木) 14:58:04 ID:TDrqRQKh 日本の収容所の一つからおいしそうな匂いがただよってくるのを感じ取った見張りの米兵さんが、米を炒めた妙な料理(当時米国でも中華料理店はあったんでしょうがいまよりはずっと少ない。チャーハンをみたことない米兵も多かったのでしょう。) を見てね我慢できなくなったか、身振りで「ちょっと食わせろや」みたいなことをしたので、機嫌をそこねたら大変だと思った爺ちゃんはいそいで作ってもっていったそうです。 一口食べた米兵は驚いた顔をして、サンキューといったあと交代時間にどうやらおいしかったことを仲間に伝えたようなのです。 次の日、さらに米をもって米兵達がやってきて通訳までつれて「もっと作ってくれ。」と言われたそうです。 初めは小隊できていた米兵さんが中隊になり大隊にまでなり、どんどん食材をもってきてチャーハンや他の中華料理を作らせれたそうで、かなり偉い少佐さんまで食べにきたそうです・・・。 どうやら軍隊の飯はまずいらしく爺ちゃんの中華料理が気に入ったようでした。 のちに爺ちゃんは本土に帰って食堂を続けたそうですが、その時に仲良くなった何人かの米兵さんはまた来てくれたらしいです。 爺ちゃんはその時の経験から米兵を決して悪くはいいませんな。ほのぼのしすぎっていうか、捕虜のとこまで飯くいにくるなよ米兵・・・。 181 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2005/07/21(木) 17:42:29 ID:TDrqRQKh »177で すが。 爺ちゃんはつかまった時絶対殺されると思っていたようで米兵がコンビーフをくれた時は信じられなかったそうです。 爺ちゃんは間違いなく米兵を何人かは殺したのに、扱いがそれなりに丁寧だったことには驚いたそうですが。 米兵は持てる者の余裕とはいえ、冗談を楽しんだり、物をくれたり、明るいエピソードが多いですな。 ちなみに最後のほうは毎日30人くらいやってきたので、捕虜の人達と協力してほとんど屋台状態だったらしいです。 ・・・・。米兵の飯はそんなに不味いのか・・・。 ご飯作ったお礼にアイスクリームを持ってきてもらったり、タバコをもらったり、結構気楽だったようです。”— 戦時中・戦場でのほのぼのとした話し - にくろぐ。 (via skaholic) (via precall) (via gutarin) (via homh) (via applemecanique) (via hm7) (via fatherion) (via hkdmz) (via hkdmz)
【日露戦争】
遼陽会戦・・・日本軍、ロシア軍を敗走させる。
2019/11/22 に公開
(awarenessxxから)
-THE TOKYO FIRE RAIDS- March 9-10, 1945 -東京 大 空襲-
On March 9-10, 1945, over 300 B-29 Bombers Attacked Tokyo, focusing on Asakusa. A successful incendiary raid required ideal weather That included significant dry air and wind. Weather reports predicted These conditions over Tokyo on the night of March 9-10, 1945. A force of 334 B-29s was unleashed - each plane stripped of ammunition for machine guns ITS to allow it to carry more fire-bombs. The attackers arrived lead over the city just after dark and were Followed by a procession of death That Lasted until dawn. The fires started by the initial raiders could be seen from 150 miles away. The results were devastating: almost 17 square miles of the city were reduced to ashes. Estimates of the number killed range between 80,000 and 200,000, a higher death toll than That produced by the dropping of the Atomic Bomb on Hiroshima or Nagasaki six months later.
Fire bombs were M47 “napalm”, a substance developed by DuPont and Standard Oil chemical companies. It is a compound of jellied gasoline containing magnesium, Which makes it stick to almost anything. If it sticks to your bare flesh, it will burn quickly down to your bones. It is very painful, and almost impossible to dislodge from off your body.
72年前の3月10日。
東京はB29による大規模な空襲にあいました。
そして自分の母はその時、空襲の中心部だった、現在の墨田区両国で被災したのです。母の空襲体験はこれまで聞くことがありませんでした。
聞いても話してくれることはなかったのです。しかし数年前、叔母の葬儀の時に住職と会話しているときにふとその話になり、初めて聞くことが出来たのです。
聞いたのはそのときだけ。
それから2度と自ら話すことはありません。3月9日の未明、母は父(母のです 自分から見れば祖父)に突然起こされ、必要最小限の荷物だけをまとめて幼い弟二人と妹を連れて逃げるように言われたそうです。
その時はすでに表は焼夷弾の炎に包まれていました。父は銀座の用品店に勤めており、普段はとてもおしゃれな人だったそうですが、その時は荒縄をたすきがけにかけて、上着も縄で縛り壮絶な姿をしていたそうです。
父は仏壇を家の前の電信柱にくくりつけ、子どもたちと妻を大八車に乗せて避難を始めました。当時の母の家は旧両国国技館の裏手にあり、何かあったときは両国駅に避難するように父から言い含められていたそうです。
両国駅周辺は空襲が増えるにつれ、「建物疎開」でほとんどの建物が壊されて撤去されており、空き地になっていたそうです。空き地になっていれば燃えるものはない。
だから空襲にあったときは両国駅前に避難することになっていたそうです。
旧両国国技館は両国2丁目の回向院の旧境内にあり、そこから両国駅までは現在の地図を見ると約500メートル。
火の海の中を母の一家は両国駅を目指しました。当時の木造家屋は焼夷弾により燃え上がり、さらに強風により炎が舞い上がる地獄だったそうです。
その中をとても駅まで逃げることは出来ないと思った母は父に「近くの学校に逃げ込もう」と提案したそうです。
学校は鉄筋で出来ており、燃えることはないと思ったそうですが、父に即座に却下され、何が何でも両国駅まで逃げ切ると言われたそうです。
火の海の中をどこをどう通ったのか、なんとか両国駅まで逃げ切ることが出来たそうです。
そこは炎も襲ってこない安全地帯になっていました。そして母は母を含めた5人の兄弟、両親と奇跡的に一家そろって助かったそうです。
母は逃げる途中に学校へ避難することを主張したのですが、学校へ避難した人たちは燃える炎に鉄筋の建物が包まれ、中で蒸し焼きになり亡くなったそうです。
空襲からあけた朝、家に戻ってみると当然全て焼け落ちていましたが、父が家の前の電信柱にくくりつけた仏壇はしっかりと残っていたそうです。
なんというかその時は父のあまりの要領の良さに感心したそうです。家の前に置いておいたら誰かに踏みつぶされてしまうし、もって逃げることは出来ない。しかし電信柱にくくりつけておいたら誰も気にとめないと判断したそうです。
そのために荒縄を肩からかけて避難の準備をしていたのです。家を焼かれた母の一家は、空襲にあって家を無くした罹災証明書をもらうために、区役所が臨時で作った窓口(当然屋外です)に母とその弟を並ばせました。
並んでいる人たちは皆一様にススで真っ黒になり、疲れ果てた顔をしていたそうです。
そのうち前に並んでいた人たちがしきりに母の方を見てなにか話しては前を向き、振り返っては何かを話していたそうです。
何かと思っていたそうですが、母もふと後ろを振り返ると、すぐ後ろに赤ん坊を背負った女性が並んでいたのですが、その背負われた赤ん坊はグッタリとしており、息をしている様子は無かったそうです。罹災証明をもらった一家はとりあえず、親戚がいる千住に向かって移動を始めました。
歩いていく途中は炭化した焼死体だらけ。その中を歩いていき、隅田川に架かる橋(蔵前橋か駒形橋)にたどりつくと生き残った人たちが連絡先を書いた紙がたくさん貼り付けられていたそうです。
そして浅草に入ったところで、現在の浅草ビューホテルの前に当たるところに(当時はなだらかな丘になっていたそうです)数え切れないほどの黒こげの焼死体が並べられていました。
その光景は今でも目に焼き付いていると話していました。
そしてその光景を見たために今でも浅草には行きたくないとも話していました。その後は母の一家は千住の親戚の家からさらに新潟の親戚を頼って疎開し、そこで終戦を迎えたのです。
母は毎年夏にあちらこちらで行われる花火大会が嫌いです。
見物に行こうともしないし、ましてや窓から見ようともしません。
それは打ち上げ花火が落ちてくる様子が、焼夷弾が落ちてくる様子とそっくりだからだと話しました。
爆撃機から落ちてくる焼夷弾がたくさんに割れて、火を噴きながら落ちてくるその様子が花火にそっくりだというのです。
その様子は一瞬美しいとも思える光景だと言っていました。これが72年前の母の体験です。
母は子どもの頃の写真が1枚しかありません。
それは小学校に入学したときのクラス全員で写した記念写真です。
その写真もほんの数年前、当時の小学校のクラス会が開かれ、田舎に疎開していた同級生が複写して配ってくれたものです。
一度その写真を見せてもらいましたが、その写真に写っている約50人中、半分の子どもたちは東京大空襲で死んだか行方不明になったそうです。どんなに苦しいことになっても母はこういいます。
「生きていれば何とかなるものよ」。